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<羯南と古島一雄>(54) 私立大学評判記(その43)
 今回は「(十五)慶応義塾大学部(一)」である。ここではまず、慶応義塾大学と早稲田大学の学生数が比較される。古島一雄は「最近の調査によれば」ということで、以下のように学生数の詳細を紹介している。

 慶応義塾大学
  大学部本科 267人
   内訳 理財科 198人
       法律科  35人
       政治科  34人
  予科 421人
   小計(大学部本科+予科) 688人
  普通部 951人
  商業学校 494人
  幼稚舎 224人。
   総合計 2,357人

 早稲田大学
  本科  694人
  予科 1348人
  専門部 765人
  高等師範科 324人
  文学部 151人 
   小計(本科+予科+専門部+高等師範科+文学部) 3,282人
  早稲田中学 1,013人
  早稲田実学校 356人
   総合計 4,599人

 本科等の高等教育及びそれに類する学生数では、早稲田の3,282人に対し、慶応が688人であり、早稲田が圧倒している。

 一方、『日本帝国文部省年報』の明治36年度版では、他の私立大学の学生数は次のとおりである。
 和仏法律学校(現・法政大学) 1,124人
 明治法律学校(現・明治大学) 1,784人
 東京法学院(現・中央大学)   1,260人
 日本法律学校(現・日本大学) 1,533人
 関西法律学校(現・関西大学)   684人

 各大学とも高等教育及びそれに類する学生数であるが、慶応はここでも学生数が他大学に比べ少ないことがわかる。しかし、慶応の方が社会の評価は高かく、入学試験も他大学より難しかった。

 ちなみに明治31年(1989年)の試験科目は、日本地理、万国地理、日本歴史、万国歴史、博物学、物理学及化学、数学、英文和訳、和文英訳、英語会話及書取、日本作文、図画となっている。

 いしがみ
# by kuga-katsunan | 2012-05-27 14:41 | その他 | Trackback | Comments(0)
津軽学
 津軽を深く掘り下げる雑誌「津軽学」をきくちさんから頂いた。

http://jomonjin.exblog.jp/17786593/

 羯南研究会のことをとりあげて頂いていた。

 題名は「それゆけ、羯南探偵団」である。

 家内からは、おじさん探偵団とからかわれている。

 半藤さんの歴史探偵ではないが、明治以降の資料は更に出てくる可能性がある。

 これまで復刻した

 日本画報

 新聞日本 分県地図

 東亜時論

 東亜同文会報告

 いずれも、原典をよく読めば、その存在はわかるが、いずれもその全貌を知ることは難しかった資料である。

 司馬遼太郎賞の受賞者である長谷川毅カリフォルニア大学教授は、その授賞式で

「歴史は誰かが光をあてなければ暗闇の中で静かに眠っている。」

 とスピーチした。

これからも、すこしづつ光をあてる努力をしていきたいと思う。

たかぎ
# by kuga-katsunan | 2012-05-20 22:47 | トピックス | Trackback | Comments(0)
同時代人 野村胡堂
 生前、父が入院していた病院の近くに、野村胡堂が住んでいた家があった。

 車椅子で父と散歩しているときによく前を通ったが、はるか前の作家の家が戦災を逃れて眼前にあるのが不思議な感じであった。

 回想集である「胡堂百話」の中に<俳人子規の死>と題する一文がある。

「正岡子規の死んだ時は本当に泣きたい気持ちで、駆け付けたものである。(中略)根岸庵に駆けつけると、世話人の手が少なかったのか、私のような学生までが、受付係りを仰せつかった。」

 子規の葬式は羯南が仕切ったというから、学生時代の胡堂は羯南の指図で受付に立ったのだろう。

「柩を埋めて、その上に置いた銅版に「子規居士」と鋳抜いた素朴な墓碑銘が、今もありありと眼の底に浮かぶ。」

 この墓碑銘も羯南の筆になる。

 胡堂は岩手時代、石川啄木と同人誌を作ったりしていたが、上京して一高に入学、子規の葬儀はその在学中のこと。

 東大を中退して報知新聞の記者になり、銭形平次を生み出したのは昭和6年のころである。

 新聞記者時代、時事川柳の連載を始めたが、それが新聞日本の影響だったのかどうか今や知る術もない。

 たかぎ
# by kuga-katsunan | 2012-05-20 22:31 | トピックス | Trackback | Comments(0)
弘前:羯南詩碑
 弘前の市外の「鷲(わし)ノ巣」(弘前市狼森)という小高い山の頂に、羯南の漢詩を刻んだ詩碑がある。

 名山出名士

 此語久相伝

 試問巌城下

 誰人天下賢

 この名山は、岩木山のこと。
詩を碑にしたのは、弘前の医師の鳴海康仲氏(1897~1977)である。
1953年9月2日、羯南の命日に碑を建立した。

 羯南の詩を刻んだ銅板を、小中高校計約380校に寄贈したという。

 今、この場所から地元の小学生たちが自分たちの夢を叫んでいるという

 こうした経験は子供たちの心に刻まれる。

 羯南の生家跡地に記念館建設を実現できないだろうか。

たかぎ
# by kuga-katsunan | 2012-05-19 11:23 | トピックス | Trackback | Comments(0)
<羯南と古島一雄>(53) 私立大学評判記(その42)
 今回は「(十五)慶応義塾の沿革(下)」の後半に入る。ここには明治4年(1871年)から明治36年(1903年)までの在学者数が掲載されている。
 各年の在籍者数については下記のとおりである。

 明治4年(1871年)  319人 明治5年(1872年)  311人 
 明治6年(1873年)  316人 明治7年(1874年)  314人
 明治8年(1875年)  373人 明治9年(1876年)  340人
 明治10年(1877年) 282人 明治11年(1878年) 233人
 

 明治12年(1879年) 293人 明治13年(1880年) 334人
 明治14年(1881年) 476人 明治15年(1882年) 578人
 明治16年(1883年) 649人 明治17年(1884年) 570人
 明治18年(1885年) 514人 明治19年(1886年) 697人

 
 明治20年(1887年) 954人 明治21年(1888年)1094人
 明治22年(1889年)1341人 明治23年(1890年)1507人
 明治24年(1891年)1555人 明治25年(1892年)1405人
 明治26年(1893年)1219人 明治27年(1894年)1039人

 
 明治28年(1895年) 944人 明治29年(1896年) 908人
 明治30年(1897年) 985人 明治31年(1898年)1180人
 明治32年(1899年) 984人 明治33年(1900年)1215人
 明治34年(1901年)1439人 明治35年(1902年)1667人 
 明治36年(1903年)4月まで 1771人 

 ここからでも明治10年からの経営危機がわかる。明治23年になると大学部を設けたが、すぐに軌道に乗るわけではなく、一旦、落ち込み定着するまでに10年ほどかかっている。社会に評価されるまでには、やはりこれだけの期間がかかるのだ。

 「福沢氏一生の大目的は封建思想を打破して社会の急先鋒たるにありしかば著書に新聞に其主義を鼓吹して一日も怠るはなし」と、古島一雄は、福沢を高く評価する。そして、次のように疑問を呈する。

「故に福沢氏の事業よりすれば慶応義塾の如き福沢宗伝播の一機関たるに過ぎざるのみ、従て其開山上人の死が此沿革史の大段落を為さざる可らざるは自然の順序なり」

 福沢は明治34年に没した。慶応は福沢を教祖とする宗教のようなものであり、その教祖の死により没落するのは世の常である。古島は、「知らず先生死後の義塾たるもの果たして之に優るものありや否や。吾人更らに編を改めて之を叙せんと欲す」と述べ、次回からさらに慶応の経営の内実を掘り下げていくことになる。

 いしがみ
# by kuga-katsunan | 2012-04-29 15:27 | その他 | Trackback | Comments(0)
安部井磐根への手紙
 羯南の書簡を少しづつ掘り起こしているが、数が多いのは国会図書館の拳政資料室にある安部井磐根あての書簡。

 明治26年から明治39年まで、年代不詳のものも合わせて26通が所蔵されている。

 国会図書館のページによれば、1999年9月に個人から寄贈とされている。

 全集の書簡の部には、明治25年の安部井から羯南あての書簡が2通収録されている。

 安部井は、国会図書館の紹介文によれば

「 天保3(1832).3.17福島生まれ。

 旧二本松藩士。戊辰戦争後、二本松藩の旧領回復に奔走。
若松県監査、若松県参事を経て1878年、初代福島県会議長。
1879年初代安達郡長、県令三島通庸の施政に反対し、1882年辞任。
1886年から改めて県会議長に3度選ばれた後、1890年衆議院議員(第1回総選挙当選)、
1893年衆議院副議長。
1900年〜02年国民同盟会参加。
1916.11.9死去。」

 とある、

 時代的には衆議院議員として活躍している時期から、晩年に近いものまで長きにわたる。

同じく国会図書館の資料紹介によれば

「安部井宛の書簡には、「対外硬」の同志である神鞭知常、陸実(羯南)、寺師宗徳等の発信のものが多い。
書類には、郡長・県政時代のものや、国政時代の条約改正および大日本協会等の「対外硬」組織関係資料などがある。
日記は1882年から1916年までのものがある。
来客名・書簡の往来・会合日程等が淡々と記されたものだが、代議士時代の記述からは、活発な人的交流の様相がうかがわれる。
さらに国文学に造詣があり、歌人としても秀でていた安部井にふさわしく、自作の歌・漢詩も相当数ある。」

 日記もあるとのことだが、これには羯南も出てくるであろうか

たかぎ



# by kuga-katsunan | 2012-04-29 05:10 | 研究 | Trackback | Comments(0)
津軽人  佐々木元俊
 先日のやまだ先生の写真のうち、下の2枚は津軽の医師佐々木元俊の墓である。稲葉先生は、元俊を<津軽洋学の祖>とされている。元俊は、町医師の家に生まれ、江戸の杉田成郷の蘭学塾で学び、弘前に帰って蘭学堂で教鞭をとった。

 <墓石裏側の墓誌は羯南の文章である。

文政元年生干弘前  歳及三十去赴江戸従杉田成郷修蘭学
嘉安之際為藩医官兼蘭学師実本藩洋学之祖
    明治七年十二月十六日病没
    年五十七墓表勝海舟之筆也
明治二十七年十二月十六日

  墓表には、香遠佐々木元俊墓とある。
(中略)
天下の海舟に染筆を依頼したのは羯南である。>
    (稲葉克夫  陸羯南の津軽)

その上の写真は、この元享の息子で、明治二十五年の千島艦事件で殉職した海軍軍医佐々木文蔚の墓である。

たかぎ

 
    

# by kuga-katsunan | 2012-04-29 04:22 | Trackback | Comments(2)
昭和史を陰で動かした男
 犬骨坊のことを書いたら、

<昭和史を陰で動かした男>松本健一

という本が出ていることに気が付いた。
そういえば、以前、菜の花忌で松本先生が五百木のことを話されていたことを思い出した。

 副題は、忘れられたアジテーター・五百木瓢亭、となっている。
内容を読むとアジテーターという言い方は少し違うのではと思う。

 五百木は自ら実践の人であり、その信条に殉じた生き方だったと思う。

 あちこちに羯南とからむ話が出てくる。

たかぎ
# by kuga-katsunan | 2012-04-23 05:41 | トピックス | Trackback | Comments(0)
<羯南と古島一雄>(52) 私立大学評判記(その41)
 現在の慶応義塾大学は、私立大学の雄として君臨し、学生数、約34,000名(2011年5月)を誇る。しかし安政5年(1858年)の創立から40年間はたびたび経営危機に見舞われたのであった。

 今回から「(十五)慶応義塾の沿革(下)」に入る。そこには文久3年(1863年)から明治36年(1903年)までの入学者数と在学者数が掲載されている。
 まず、各年の入学者数については下記のとおりである。

 文久3年(1863年) 10人  元治元年(1864年) 36人 
 慶応元年(1865年) 58人 慶応2年(1866年) 77人 
 慶応3年(1867年) 84人  明治元年(1868年)103人
 明治2年(1869年) 256人 明治3年(1870年)326人 
 明治4年(1871年)377人  明治5年(1872年) 317人 
 明治6年(1873年)240人  明治7年(1874年)254人

 明治8年(1875年)273人  明治9年(1876年)189人
 明治10年(1877年)105人 明治11年(1878年)130人
 明治12年(1879年)186人 明治13年(1880年)204人
 明治14年(1881年)344人 明治15年(1882年)396人
 明治16年(1883年)331人 明治17年(1884年)223人
 明治18年(1885年)271人 明治19年(1886年)435人

 明治20年(1887年)514人 明治21年(1888年)571人
 明治22年(1889年)653人 明治23年(1890年)675人
 明治24年(1891年)505人 明治25年(1892年)380人
 明治26年(1893年)310人 明治27年(1894年)236人
 明治28年(1895年)543人 明治29年(1896年)399人
 明治30年(1897年)547人 明治31年(1898年)436人

 明治32年(1899年)351人 明治33年(1900年)420人
 明治34年(1901年)436人 明治35年(1902年)743人 
 明治36年(1903年)4月まで409人 
 合計13,353人

 一覧からわかるように明治6、10、17、27年と4度の学生数の急減を経験しているが、最大の経営危機を招いたのが明治10年であった。福沢諭吉は一時、廃校まで決意したという。その原因は西南戦争により武士階級出身が疲弊し、その進学者が大幅に減少したことによるものであった。

 困窮した福沢は文部大臣宛てに「私塾維持の為、資本拝借之願」という政府への借金の依頼書を提出したが、それは受け入れられなかった。結局、「慶応義塾維持法案」という寄付金募集の基準を定め、同志や卒業生約130名から寄付金を募って、ようやく危機を脱することができた。

 しかし復興の最大の要因は、なにより幸運なことに当時、学生層が士族出身から平民へ拡大していたことにある。明治5年の学制頒布以来、平民の就学率が次第に増し、ちょうど明治13年ごろには急上昇に転じていた。また、士族も学歴を得ることで立身出世の道を目指すようになっていた。まさに時代の潮流に救われたのであった。
 
 さて、現在の新聞には私学を取り上げここまで詳細な分析を行うことはない。時に大学シリーズとして特集を組むことはあるが、表面をなぞるだけにすぎない。本質を追究する気迫が欠けているように思えてならない。

いしがみ
# by kuga-katsunan | 2012-03-27 14:57 | その他 | Trackback | Comments(0)
犬骨坊と南八
 3月25日の日本経済新聞のコラム「風見鶏」には、羯南が明治29年の三陸津波に際して特派員を派遣して報道したことが紹介されている。

 特派員に動行した画家は、中村不折だったが、特派員二人、ペンネームで現地の様子を書き送った犬骨坊とは、松山出身の五百木瓢亭であり、南八は、青森出身の浅水又次郎であった。

 五百木は、松山の士族出身、松山医学校で医学を学び、医師の資格をとった医師であった。東京に出てから子規と句作に親しんだ。
 日清戦争で召集、その間に新聞日本に「従軍日記」を連載、犬骨坊はその際のペンネームだった。

愛媛県史の資料によれば、帰国後除隊し、日本新聞社に入社した。
 この津波の折には、編集部の社員だった。

たかぎ

 
# by kuga-katsunan | 2012-03-25 18:26 | トピックス | Trackback | Comments(0)
弘前:羯南生家
 先日、4月に中国に赴任する新聞社の友人を、弘前に案内をした。

駆け足だったが、青森の近代文学館で資料を拝見してから弘前に伺った。

近代文学館にかざられていた羯南の短冊は

 神ますと仰きまつれは増鏡吾が真心の影にさりける

という、羯南の歌集<瑞穂舎歌草 牟多加記>の中の、雑の部、心魂に掲載されている作品である。

 弘前では郷土文学館にある羯南の軸を初めて拝見した。

こちらは、羯南の漢詩集の第五集にある作品。

辛丑遊清詩紀、即ち明治34年に羯南が、近衛篤麿らと清と朝鮮をまわった時の作品集にある。

 全くの余談だが、以前、京都のオークションで落札できなかった<山東関>の作品も同じ詩集にある。

即ち,題は、<太液池>

   秋風満目入残荷

   太液荒涼嘆浙波

   水殿渚宮人去尽

   月明夜夜為誰多

 この二つを並べ、羯南の清国行を想ってみたい、とするのは贅沢であろうか

 在府町にある、羯南の生家も訪ねた。

 雪景色だが、羯南没後百年の時にたてられた碑の隣に大きな売物件の看板が出ていたのには驚いた。

 羯南が東京で家族と暮らした根岸の家は、彼が面倒をみた隣の子規庵、向いの中村不折宅に比して原型をとどめていない。

 なくなった鎌倉の苫家も現代的な別荘がたっている。

 生家の跡地を活かして、せめて記念館のようなものは考えられないだろうか

 たかぎ  

            
# by kuga-katsunan | 2012-03-22 06:03 | トピックス | Trackback | Comments(0)
<羯南と古島一雄>(51) 私立大学評判記(その40)
 前回に引き続き「(十四)慶応義塾の沿革(中)」である。
 古島一雄は、福沢諭吉が“演説”を教育する施設として演説館を建設したことについて、彼の文章を引用し、次のように紹介している。

 「明治八年春本塾邸内に始て演説館なるものを新築して演説討論演習の用に供したり。但し其趣意は演説を以て直に聴衆を益するの目的に非ず。唯此所に公衆を集め又は内の生徒を会して公然所思を演ぶるの法に慣れ以て他日の用に供せんとする者にして演説討論を稽古する場所なり」

 自由民権運動が高揚する前に、演説館が建築されていたのであった。
 そして、福沢のこの姿勢に対して、古島は以下のように高く評価する。

 「今よりして之を見れば其建築は粗末なる一個の木造にして外観の見るべきものなしと雖も福沢氏が慧眼早く之に着目し直に之を実行したりしに至ては君が如何に文明開化主義の伝播に全力を灌ぎたるやを見るべく又以て君が勇往邁進其所信を貫かんとする意気の量を見るべきなり」

 当初の演説館は“粗末”なものだったようだ。しかし、ここから犬養木堂(毅)の「匕首直に敵の咽喉に迫まらんとする痛快なる弁舌」、尾崎学堂(行雄)の「論理透徹、法度森厳なる雄弁」、井角(井上角五郎)の「長広舌」が生まれたのだという。
 演説は、自由民権運動の、また「立憲制度の機関」の手段として必需品であった。

 今、福沢のような「勇往邁進其所信を貫かんとする意気の量」をもった教育者はいるのだろうか。

 現在の日本には、教育ばかりでなく政治にも経済にも閉塞感が漂う。加えて昨年3月11日には東日本大震災にも見舞われた。まったく“この国のかたち”の先が見えず、はがゆいような焦燥感を感じているのは私だけではないだろう。

 しかし、先日の2月18日に東京の日比谷公会堂で「3.11後の『この国のかたち』」と題した第16回菜の花忌シンポジウムを聞いて目の前の霧が晴れるようになった。シンポジストとして、ノンフィクション作家の佐野眞一氏、学習院大学教授の赤坂憲雄氏、作家の高橋克彦氏、玄侑宗久氏が登場された。

 各人、震災の実体験を踏まえ、その復興活動をされてきた発言が聴衆の心を震わせた。「この国のかたち」の新たな提言がちりばめられ、現在が時代の転換期にあることを感じさせるものであった。
ちなみにこのシンポジウムの様子は、3月31日にNHKのEテレで放送される予定である。

 いしがみ
# by kuga-katsunan | 2012-02-28 10:21 | その他 | Trackback | Comments(0)
弘前陸羯南会誌  第二号発行 
 弘前では陸羯南会の総会が開催された。

併せて<陸羯南会誌>の第二号も発行された。
 これまでの会の中で発表された、笠井哲哉氏の<陸羯南を楽しむ>は東京、鎌倉、弘前の羯南を歩くで大変楽しく、彼の生涯の中での重要なほかの地域も歩ければと思う。

 有山先生の講演の記録も大変貴重で、伝記の作者ならではの、彼の生涯を俯瞰した上での故郷等の位置づけが浮かび上がり、メディア史の中での果たした役割が見えてくる。

 第一号の中にもあった舘田会長による羯南の書簡の翻刻も重要で、全集の完結した後に、種々発見されてきている羯南の書簡を一つづつ資料化することは今後の羯南研究に新たな側面を開く可能性を大きく秘めた労作だと思う。

(会誌、陸羯南会の連絡先は、弘前市東和徳町十の四まで。)

たかぎ 

 
# by kuga-katsunan | 2012-02-26 20:23 | ニュース | Trackback | Comments(0)
<羯南と古島一雄>(50) 私立大学評判記(その39)
 「演説」という言葉は現代ではだれでも知っている。これは、英語のspeech(スピーチ)の翻訳であるが、実はそれを最初に行った人物が福沢諭吉であった。
          
 しかも慶応義塾に日本で初めての演説館を建てた。翻訳もさることながら、実際に演説を学習する施設も造ったのである。それが現在も慶応大学三田キャンパスの中に重要文化財として残っている。

 先日(2012年1月8日)、NHKのEテレで『日本人は何を考えてきたのか 第1回日本はどこへゆくのか~福沢諭吉と中江兆民~』にこの演説館が登場していた。外観から内部に至るまで詳細に放映された。外観は洋風なのでおしゃれな感じを与えるが、一歩中に入ると威風堂々といった雰囲気を感じる。演壇が1メートルほどと高く、そこから眼下に200近くの椅子席を一望することができる。壇上に立てばさぞ緊張するだろう。

 さて、前回から「(十四)慶応義塾の沿革(中)」に入っている。前回テーマの授業料から、今回は“演説”を取り上げる。当時の日本にとって、自由民権運動から国会開設に至る時期でもあり、演説は重要なものとなっていた。
 古島一雄は次のように述べる。

 「慶応義塾に到るものは赤煉瓦の講堂と大寄宿舎との間に立てる最古の建築あるを見ん、是ぞ世に名高き三田の演説会堂にして日本に於ける演説会堂の元祖なり」

 当時でも演説会施設の意義は認識されていた。さらに福沢の文章を引用しているので、たどってみよう。

 「明治七年夏の頃塾の教員相会し学術進歩の事を議して謂らく、西洋諸国には『スピーチュ』の法あり(即ち今日の演説なり)。学塾教場の教のみにては未だ以て足れりとす可らず。『スピーチュ』『デベート』の如き学術中最も大切なる部分なれば此法を我国に行はれしめては如何との相談にて衆皆之に同意し何事にても世に普通ならしめんとするには吾より之を始むるに若かず」

 福沢の熱意がひしひしと伝わってくる。  

 「然らば此原語を何と訳して妥当ならん談論、講談、弁説、問答等様々に文字を案じて遂に『スピーチュ』を演説、『デベート』を討論と訳して其方法の大概を一小冊子に綴り社中窮に之を演習したるは明治七年五月より凡半年の間なり」

 いろいろな翻訳の候補が考案されていたことがわかる。ここから演説会堂の開設につながってゆくのであるが、それは次回にゆずることにしよう。

 いしがみ
# by kuga-katsunan | 2012-01-28 19:39 | その他 | Trackback | Comments(0)
弘前・稲葉克夫先生「私の落穂拾い」
 弘前の稲葉先生から新著「私の落穂拾い」を頂戴した。

副題に「昭和の庶民、そして陸羯南、安藤昌益」とある。

稲葉先生が若き日々から、追求されていらっしゃったテーマが現れていると思う。

 一つ一つが非常に重いテーマを扱っていらっしゃるが、羯南研究会としては、やはり第三編の羯南部分が注目される。

 
この本、この資料のここまで触れていらっしゃる、と思う作品が多いが、なかでも最期の第三話「極楽寺五六一番地」が心に迫る。

 1969年12月の作品である。

世は、70年安保闘争の時代、喧噪の東京と違い、鎌倉はひっそりとしている。
この時代の鎌倉は、筆者も子供時代の記憶に残っている。
夏の海水浴客が帰った後の鎌倉は、今の観光地とは違い、住民たちの生活の場としてのたたずまいをのこしていた。

 昭和44年に羯南終焉の地を訪れ、明治40年の時を思った稲葉先生は、それから更に40年多を経て北の弘前で何を思ったか。

 池辺三山は、この地で羯南を見舞い、二人で新聞と、これから来るべき世界を語りあった。

羯南、没後105年の今年、我々は何を思うか。

たかぎ
# by kuga-katsunan | 2012-01-23 21:54 | ニュース | Trackback | Comments(0)
池辺三山日記
 お正月でもあり三山の日記を読み返してみる。

 三山の資料の多くは、長男の池辺一郎氏によって、駒場にある近代文学館に寄託されている。その目録も発行されている。中には、国民同盟会を組織していく過程のメモなども残っている。組織化するために例えば誰がどの地域を担当するかなどの記述もあり、まだまだこれから調べる余地がある。

 三山が折にふれ書いていた手帳、日記の類は、日本近代文学館資料叢書の中の「文学者の日記」として三巻本となって公刊されている。

 日記は第三巻に年代にわけて掲載されている。
第一日記は明治35年である。日英同盟が締結された年、三山は、朝日新聞の重鎮として忙しく立ち働く姿が見えてくる。

 ただ忙中閑ありのようで、時々、国分青崖が訪ねてきたりして、囲碁をしたりしているのは微笑ましい。囲碁をうちながら、論説の考などを語り、練りなどしていたのだろう。

 読み進むうちに、あっと思った記述がある。

「六月一日湯島麟祥院ニテ長清会三浦将軍陸羯南等九名集ル
 本庄子爵モ来ル湖村青崖鬼塚等来ル  勝負傍観入興」

(日本近代文学館資料叢書「文学者の日記」3 池辺三山(三))

 羯南を中心とした囲碁の会である、長清会は、折にふれ開かれていたようだが、場所は上野、寛永寺の分院・元光院と記述されている資料ばかりであった。

 この湯島の麟祥院は初見の場所である。

また会のメンバーでも

  本庄子爵

  鬼塚

の二名の名前も初見である。

たかぎ 
# by kuga-katsunan | 2012-01-02 06:36 | トピックス | Trackback | Comments(0)
<羯南と古島一雄>(49) 私立大学評判記(その38)
 今回から「(十四)慶応義塾の沿革(中)」に入る。時は明治26年11月16日、次年の2月8日には日露戦争が始まるわけで、日本とロシアとの緊張が高まっているころでもある。ここでは慶応義塾の「月謝制度の創定と演説会の創始」が紹介されている。今回は、月謝制度を取り上げよう。

 今日では当たり前であるが、学校が授業料を徴収するようになったのは、慶応が初めであった。古島一雄は次の福沢諭吉の文章を引用する。

 「古来日本に於て人に教授する者は所謂(いわゆる)儒者にして此儒者なるものは衣食を其仕(つかまつ)る所の藩主に仰ぐ歟(か)若くは出入の旦那より扶持米を収領し、或は揮毫して潤筆料を取り、或は講筵(こうえん)に出頭して謝物を受ける等極めて曖昧の間に心身を悩まして人の為に道を教へたることなれども今や世界中の時勢は斯る曖昧なるものに非ず教授も亦是れ人の労力なり、労して報酬を取る、何の妨あらんや、断じて奮慣を破て学生より授業料を取るの法を創造す可し」

 江戸時代まで日本の学校では授業料という発想がなかった。近世の教員は上述のようなさまざまな方法や束脩(そくしゅう)という入学金にあたる金品で収入を確保していた。ちなみに「授業料」という言葉は福沢の発明であったという。
 さらに、以下のように続く。

 「束脩の名義甚だ不適当なれば改めて之を入社金と名け其金額を規則に明記して之を納むるに熨斗(のし)水引を要せずとて生徒入社の時には必ず金三円を払はしむることに定めたり。当時世間に例もなきことにして且つ三円の金は甚だ多きに似たれども一は以て軽躁学生の漫(すずろ)に入来するを防ぎ、一は以て塾費に充んとする趣行なりき」

 上記のとおり入学金は3円としたが、授業料は毎月50銭であった。その根拠を次のように決めたと述べている。

 「毎月授業料の高を定むるに当て其標準と為す可きものなし。依て案ずるに当時の教員若干名其一月の食費雑費を概算すれば物価下直の時節一人に凡そ四円にして足る可き金額と塾の諸雑費とを其計して之を学生の数に割付れば一名よも毎月五十銭を収めて過不足なかる可しとて慶応義塾の授業金半円なりと記したるは本塾創立以来明に金を取て人に数ゆるの始めなり」

 毎月の授業料は教員1ヶ月分の食費をもとに計算したことがわかる。年にすると6円となる。明治5年の白米10kgの値段が36銭であったという(『値段史年表 明治・大正・昭和』朝日新聞社)。これを基準に現在の価値に換算すると入学金は約35,000円、授業料は約70,000円となる。

 これは、現代の大学の授業料と比較すると安く感じられる。しかし、当時の学生の中心である士族にとって、藩校は無料であったし、秩禄処分で困窮していたことを考えるとかなりの冒険であっただろう。

 福沢は、このように学費の徴収を始めたため、世間から当初は「不義不徳の商売人」と批判された。しかし、官学も私学も追従し、この時期には定着していた。

 古島は慶応に対し、この授業料を高く設定することで、乱暴な学生を排除できたことは認めるが、金持ちの子弟が行く学校になってしまったと嘆く。

 いしがみ
# by kuga-katsunan | 2011-12-27 14:41 | その他 | Trackback | Comments(0)
新聞日本 運動記者 安倍能成
 以前、中野目先生のお弟子さんから、安倍能成が若き時代に新聞日本の記者をしていた、と聞いて何か資料はないかと探していた。

 安倍は、松山出身の哲学者で一高校長、学習院院長を務め、一高時代の同級生で後の岩波書店の創業者岩波茂雄との交友は一生続いた、という。

 その安倍が岩波から出した「我が生ひ立ち」という自伝(1966年11月)の中に<運動記者>という項があった。

 「三十七年の七月に落第して、私は月々に十一円を、貧しい郷里の父から送つてもらふのをすまなく思った。」(同書)

 日露戦争の戦中である、安倍は一高を落第、改めて故郷の父を思ったようである。
友人の友人の紹介で、新聞日本で運動記者を求めているとの話があった。安倍は、運動に興味がないと一度断るが背に腹はかえられず、面接に赴く。

 「とうとう小川町に近い神田雉子町の、煉瓦二階造りの日本新聞社へゆくと、出てきたのは河東碧梧桐と長谷川如是閑の二人で、結局私は採用されることになった。」(同署}

 まったくの余談だが、先日のテレビドラマの「坂の上の雲」では日本新聞社は平屋の日本家屋になっており、キャプションで入った所在場所も違ったところとなっていた。

  閑話休題、河東は安倍と同郷、長谷川も前年に日本に入ったばかりの新人記者、若手の気安さでじゃあ、まあ、君、書いたものを拝見、ということになったようだ。

たかぎ 
 
# by kuga-katsunan | 2011-12-24 05:52 | トピックス | Trackback | Comments(0)
展覧会・子規の叔父加藤恒忠の残した絵葉書
 大阪のいしがみさんからの情報です。

 大阪府立弥生文化博物館で、子規の叔父であり、羯南の司法省法学校の同級生だった加藤恒忠とその妻の残した絵葉書の展覧会が1月29日まで開かれている。

 日露戦争をはさんで、世は空前の絵葉書ブームだったという。

その数、数千枚というから、おそらく明治期の外国絵葉書のコレクションとしても最大規模のものの一つであろう。

 しばし20世紀初頭の世界に心をはせたい

たかぎ

# by kuga-katsunan | 2011-12-24 05:00 | ニュース | Trackback | Comments(0)
ブログ開設5周年  東奥日報に紹介されました
 つかもと君に作って頂いたブログもあっという間に5周年。

11月28日の東奥日報に<東亜同文会報告>復刻が紹介されました。

< 弘前市出身で新聞「日本」社長兼主筆の陸羯南(くが・かつなん)が幹部を務めた東亜同文会の機関誌「東亜同文会報告」が、陸羯南研究会(東京、高木宏治主筆)の企画で復刻された。

 国内に分散所蔵され、閲覧に大きな支障があった同誌をまとめたもので、1900(明治33)年の義和団事件から、辛亥革命前年の1910(同43)年にかけてに当たる。

 監修した愛知大学の藤田佳久名誉教授は「現在につながる東亜史の原点を伝える重要資料であり、復刻は近代史研究に大きく寄与するだろう」と話している。>

(東奥日報2011年11月28日)

http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2011/20111128110025.asp

 羯南シリーズの復刻も

2008年 日本画報
2009年 新聞「日本」付録明治中期分県地図
2010年 東亜時論
2011年 東亜同文会報告

 おかげさまで4冊を出版させて頂いた。

 腹案としては、

好評だった新聞連載シリーズを書籍として出版した<日本叢書>

新聞「日本」の愛読者団体の機関誌であり羯南、雪嶺、をはじめとした関係者の全集等未収録座談、論文を掲載した<日本青年>

羯南が東亜同文会の前に同志と活動をしていた東邦協会の会報<東邦協会報告>

これまでの復刻に掲載されていなかった新聞「日本」本紙の号外、附録の集成

等があるが、原典に戻って、羯南の多彩な活動を再現できるように努力したいと思う。

たかぎ


# by kuga-katsunan | 2011-12-04 12:21 | ニュース | Trackback | Comments(0)
<羯南と古島一雄>(48) 私立大学評判記(その37)
 今回は「(十三)慶応義塾の沿革(上)」の後半となる。
 ここでは慶応義塾の開学から数年までの学生の様子と教育の風景が描かれている。

 古島一雄は、次の福沢諭吉の文章を引用する。

 「諸藩の壮年士族が戦場より帰りて、直に学に就き、其心事挙動の淡泊にして、活発なるは真に愛す可しと雖も、奮時の殺気なお未だ去らず。動もすれば粗暴に走りて学塾の教場或は一小戦場たる可きの恐れ少なからず」

 当時の時代背景もあって乱暴者が多く、沈黙をもって暗に諭すことも、理論の深遠をもって直接諭すことも無理であった。教員側が旧来の行儀作法を重んじることなく気さくに生徒に交わり、そのうえで「理を説き道を示して」、ようやく学生らしく誘導することができたという。また、もっとも困ったのは、維新以後3、4年とのことである。 

 次に教育の風景について、福沢は以下のように記している。

 「創立の初めに当ては、学問の規則とて特に定めたるものなく、唯英文を読んで其義を解することを勉め、所用の書籍も僅かに一、二冊の会話編又は文典書あるのみ」

 開学当初は、教材すら乏しかったことがわかる。さらにその後の様子が綴られている。

 「万延元年に至て米国開版の原書数部とウエブストルの辞書一冊を得たり。之を本塾蔵書の初として其他に当時藩幕政府の筋より私に数部の英書を借用し、又一年を隔て文久二年英国開版の物理書地理書学術韻府等の書に併せて経済書一冊を得たり。即ちチャンブル氏教育読本中経済の一小冊子にして当時は日本国中稀有の珍書なりき」

 開学後4年たって初めて経済学の原書が手に入ったのであった。そして、学生は以下のごとく熱心に勉学に励んだようである。

 「右の如く書籍に乏しくして生徒の書を読まんとする者は手から原書を謄写して課業の用に供する程の有様なれば個より塾中に教則を立てんとするも其方便ある可らず」

 「五年を経て慶応三年の冬、英国の原書数百部を得たり。之を本塾一新の機とす。此時には地理物理学の書は無論、従前稀に見たる経済書歴史の如きも各其種類に従って数十冊づつを備へ生徒各科を分けて書を講ずること甚だ易く、塾中復た原書を謄写するが如き迂遠の談を聞かず」

 開学9年してようやく原書が個々の学生にわたるようになった。しかし、人はこうした苦労を経験した方がいいようだ。
 古島は、次のように分析している。

 「方今の世、教師備わり、教科書成り、博物館あり、図書館あり、知見を博くせんと欲すれば其求むるに従うべく、書を読まんと欲すれば其見るに任すべし、殊に今の慶応義塾の如き其設備の完全なる私立学校中多く其此を見ず」

 明治中期ともなると慶応義塾の教育は充実していた。しかし、卒業する学生の質はどうか。

 「慶応義塾が人材を出せしは却って此の不完全不備の時代に多くして、整頓時代に少なきを見るは何ぞや。嗚呼々々社会の秩序漸く成りたるが為めなりと云う乎。嗚呼々々風雲際会の機、少なきが為めなりと云う乎」

 時代が混乱し教育が不完全の方が、優秀な人材を輩出と古島には映ったようである。生死に直面し修羅場をくぐる経験がもっとも人を成長させるということだろう。幕末の坂本竜馬しかり、戦国の織田信長しかり。

 とりわけ古島自身の実感があったのだろう。彼自身が乱暴者であり、いくつかの学校に入ったが退学を余儀なくされた。大学にも行っていない。彼の同志の多くも同様であった。陸羯南も司法省法学校(現・東京大学法学部)を中退しているし、正岡子規も帝国大学(現・東京大学)を途中で辞めて、新聞「日本」へ入社したのであった。彼は学校教育を信用していないように思える。

 いしがみ

# by kuga-katsunan | 2011-11-30 08:43 | その他 | Trackback | Comments(0)
陸羯南会 秋季大会 弘前にて
少し前に主筆から案内のあった「陸羯南会 秋季大会」出席の為、紅葉で色づき始めた弘前へ。
東京からが一番の遠距離参加かと思いきや、さらに遠方から駆けつけた発表者や参加者の方もあり、大変力のこもった、かつ、貴重なお話をお伺いすることが出来た。
また、会場では新たに発見された陸羯南書簡が初公開され、館田会長から解説いただいた。100年以上の時を経て光のあたる歴史がいまだにあることに驚かされる。
会の冒頭には「第三回陸羯南顕彰中学生作文コンクール表彰式」があった。ご本人による入賞作文の朗読は新鮮な活力を感じた。陸羯南会の会員の高齢化を指摘する方もいらっしゃったが、こうした地道な地域活動が、埋もれそうな故郷の歴史をよみがえらせるパワーとなっていくのだろう。

やまだ
# by kuga-katsunan | 2011-11-04 16:11 | Trackback | Comments(0)
<羯南と古島一雄>(47) 私立大学評判記(その36)
 今回も「(十三)慶応義塾の沿革(上)」が続く。
 明治維新の風雲が収まってくると慶応義塾への入学者がさらに拡大していった。

 「明治三年には三百余人の入学者を見るに及び新銭座の地所建物は到底其生徒を収容する能はざるに至れり」

 そこで、福沢諭吉は明治4年(1871年)に、三田にあった島原藩邸を購入し、新たに校舎を建てた。ここで古島一雄は、その時の経緯を門弟の土居が残しているとして、その文章を掲載している。少し長くなるが、当時のその状況がよくわかるので、以下そのまま引用しよう。

 「元来彼の地面は島原藩の屋敷であった。それを維新騒動の時分に大名が国に引払った為に空屋敷になって居ったのを岩倉公が話をして東京府に取上げ、そうして東京府からして市中の拝借地を拝借人又は縁故ある者に払下げるということになって、島原藩に於ては彼の地面を再び払下げを請はんと欲する有様であった」

 「先生之を聞いて逸早くも東京府に出掛け、右の府命が発表される前に金子を上納して自分の方に払下げられた。是は今日に於て非常なる価値を有するのみならず、東京中に於ても屈指の眺望の好い、空気の良い地所であるが為に、慶応義塾の生徒は何れだけの利益を受けて居るか知れない。然るに先生が之を払下げたということを聞いて、島原藩の方で色々掛合って来たが先生一向に取合はずして遂に其土地を分捕った」

 福沢は激動する時代の中で、優良な土地を、強引に手に入れた。この“地所買収事件”について、古島は以下のように評している。

 「吾人は今ま更ら地所買収事件の是非を論ずるものにあらず。只だ今の慶応義塾なるものが実学者の先見と文明流の権利思想に依て獲得されたる偉大な形見たるを記すを以て満足せざる可らず」

 古島は新しい時代の中で近代西洋思想を身につけ、権力をものともしない一民間人にすぎない福沢の態度と心意気に共鳴したのであった。

 いしがみ
# by kuga-katsunan | 2011-10-22 11:13 | その他 | Trackback | Comments(0)
新聞記者としての経歴  池辺吉太郎
 三山池辺吉太郎は、いうまでもなく羯南の親友の一人だが、羯南の没後、回想を雑誌<文章世界>に寄せている。
 文章世界の編集者と縁があったのか、明治41年5月の号にも聞き語りのような形で自らの半生を振り返っている。
 
 柴四朗の、雑誌<経世評論>に誘われた経緯も書かれている。

 もともと熊本出身の三山だが、地元の漢学者・古照軒国友昌の塾に入った。国友重章の父君だが、重明との縁もここから発している。

 経世評論へは、重明の口ききと書かれている。

 柴は大阪毎日の主筆として大阪に行ったが、<佳人之奇遇>の大ベストセラーで味をしめた博文堂の社主原田氏は、柴をたよりに大阪支店を設立。兼業として雑誌<経世評論>を出させて更にひと儲け、の算段だったようだ。

たかぎ

# by kuga-katsunan | 2011-10-16 19:54 | 研究 | Trackback | Comments(0)
甦る東亜同文会   東亜同文会報告 いよいよ復刻へ
 昨年復刻した東亜同文会の最初の機関誌<東亜時論>の後継雑誌である<東亜同文会報告>がいよいよ復刻の運びとなった。

 http://www.yumani.co.jp/np/isbn/9784843337219

 清朝末期の明治33年(1900年)から辛亥革命直前の明治43年(1910年)までの10年強の期間の中国を各地に点在した有名、無名の筆者たちが、生の姿を報告している。

 羯南も、明治34年8月の第21回報告で、東亜同文会での講演が採録されている。(全集未収録)
講演の採録という、いわば羯南の肉声は、新聞日本の愛読者の団体、日本青年会が発行していた雑誌<日本青年>に掲載されている座談を除けば、唯一のものである。

 題して<東亜平和策>ー満洲開放の利ー。

先述したように、この講演の前後、羯南は近衛篤麿と、中国、韓国を視察している。

 日清、日露の両戦争の間、日本は中国の政治的安定の方向性を自らの国家の運命と重ね合わせて考え続けた。今年100年を迎える辛亥革命の裏の立役者の多くは日本人、そして大多数は東亜同文会の会員であった。武漢での革命成功の報を聞いて急遽中国に帰った孫文を、最初に上海で迎えたのは、羯南の盟友、犬養毅であり、古島一雄であった。

 今年も、何とか、12月の青木先生の御命日に間に合った。

たかぎ
 

 
 

  
# by kuga-katsunan | 2011-10-08 21:14 | ニュース | Trackback | Comments(0)
弘前   陸羯南会 秋季大会
 弘前の陸羯南会から秋季大会の御連絡をいただいた。

  平成23年10月30日 午後二時から午後四時

  場所 弘前市立弘前図書館二階 視聴覚室


内容

  1.第三回 陸羯南顕彰中学生作文コンクール表彰式

  2.東海健蔵あて陸羯南書簡について

     書簡 初公開

  3.陸羯南と在府町

  4.西舘孤清  近衛家密書

   
# by kuga-katsunan | 2011-10-05 18:45 | ニュース | Trackback | Comments(0)
<羯南と古島一雄>(46) 私立大学評判記(その35)
 今回は、「(十三)慶応義塾の沿革(上)」である。
 古島一雄はこれを取り上げるのであれば、幕末・明治維新の歴史や福沢諭吉の生涯を詳しく紹介するべきであるが、限りある紙面なので簡潔に述べることにするとし、次のようにまとめている。

 「安政五年福澤氏が帷を鉄砲州の奥平藩邸に下して蘭書を講じ、慶応の末年芝新銭座に移りて塾舎を新築し初めて慶応義塾と名づけしと云うの一事を以て其上古史の大綱を終らざる可らず。」

 ここではもう少しその詳細を『慶応義塾百年史』から紹介しよう。
安政5年は、1858年である。奥平藩とは中津藩(現在の大分県中津市)のことであり、福沢は藩命によって、江戸の築地鉄砲州にあった藩の屋敷内で蘭学の家塾を開設した。当時、世間からは福沢塾と呼ばれ、これが慶応義塾の起源である。

 ちなみに、「家塾」とは、藩幕に仕えている学者が、藩幕の意をうけて、自宅に設けた塾のことである。当時の「私塾」は、現在の私立学校に、「藩校」は、公立学校に当たる。

 なお、当時、福沢は数え年25歳。鉄砲州は、現在の住所であれば、東京都中央区明石町の聖路加病院のあたりである。

 当初、福沢塾はしばらく転々とする。文久元年(1860年)に鉄砲州から芝新銭座にうつり、再び同3年(1863年)に鉄砲州にもどる。そしてこの年、芝新銭座の有馬家の屋敷を入手、翌4年(1864年)再び移転する。この年に校舎が完成すると、時の年号をとって塾名を「慶応義塾」とした。

 また、組織も西洋の共立学校の制度にしたがい、志を同じくするものが共同で協力して経営するしくみを導入し、藩の庇護による家塾から脱して近代私学として独立し、発足することになった。
 さらに、教育内容も蘭学から英学が中心になっていた。

 当時、学生数は、記録に残っているものから引用すると以下の通りであった。
文久3年(1863年)9名、元治元年(1864年)44名、慶応元年(1865年)101名、慶応2年(1866年)169名、慶応3年(1867年)255名。

 塾の移転を繰り返し、学校としては、不十分な体制や施設であったが、学生数が年々増加しており、評価が高まって行ったことがよくわかる。

 さらに古島は以下のような有名な出来事を紹介する。

 「福沢先生が砲煙弾雨の間に立ちてウェーランドの経済書を講せし」

 戊辰戦争の真最中でも福沢は講義を怠らなかった。彼は上野と新銭座は二里も離れているから鉄砲玉は飛んで来るわけはないといい、学生も面白がって梯子に昇って屋根の上から見物していたという。

 福沢は官軍、幕軍のどちらが勝とうが、次の時代に何が来るかをしっかり見据え、その準備を抜かりなく行っていた、ということだろう。彼は当時すでに、アメリカとヨーロッパに計三度もの訪問経験があり、欧米の書物だけでなく、現地で直接、体得したことから、必ずや日本は西洋化されると確信したのだろう。

 古島は福澤を認め、慶応義塾に大いに期待を寄せていたのであった。
 ちなみに、彼は後に犬養毅の片腕として活躍するのであるが、犬養は慶応の卒業生であった。

 いしがみ

# by kuga-katsunan | 2011-09-28 08:57 | その他 | Trackback | Comments(0)
青島の康有為
青島にすんでいる先輩のご案内で康有為が晩年住んでいた家を訪ねた。
 戊戌の政変の失敗、日本へ亡命した彼は、羯南や近衛篤麿の援助で日本に活動の根拠地を築こうとした。
 昨年復刻した東亜同文会の最初の機関誌東亜時論にも彼の弟子の梁啓超が文章を寄稿している。

 その後日本の対中政策の変化によって彼は再び日本を出て海外を流浪することになる。
香港に住んでいる頃、骨董街で彼の書を買おうかと思った。流浪の間、彼は支持者たちに書を書くことで糧を得ていたともいう。

 孫文らの辛亥革命の実現によって、中国に帰ることができたが、その主張は既に時代に追い越されていた。
 青島が旅路の果てとなったが、小高い場所にある家の窓から、黄海を眺めながら、彼の胸に去来したものは何だっただろうか。
 
 羯南や近衛は、彼の帰国よりも早く、明治34年の夏、山東半島の反対側の煙台に立ち寄っていた。

たかぎ
# by kuga-katsunan | 2011-09-24 07:17 | 紀行 | Trackback | Comments(0)
鈴木虎雄遺文集
 鈴木虎雄は羯南の次女の娘婿。

大學を出てすぐに日本新聞にはいったこともあり、種々の人物の結節点にいる。

彼が羯南について書いた文章、子規について、長清会について、とあちこちに残っている。

本業の中国文学についての本は古本になっても高価だが、この種の文章はうもれがちである。

このままでは確実に散逸するので、一冊にまとめられないものだろうか。

さ来年が虎雄没後50年、ここが一つの機会とも思う。

たかぎ
# by kuga-katsunan | 2011-09-06 19:47 | トピックス | Trackback | Comments(0)
<羯南と古島一雄>(45) 私立大学評判記(その34)
 今回から明治36年(1903年)11月15日の「(十三)慶応義塾の沿革(上)」に入る。今後しばらく慶応が取り上げられ、その実態が詳細に紹介されていく。日本で最初の私立大学である慶応が分析されることで、明治という激動の時代をどう生き抜いてきたかが浮かび上がることになるだろう。

 その前に、今回は歴史の教訓について考えてみたい。これまで古島一雄によって、慶応や早稲田大学をはじめとする私大や東京帝国大学の“評判”が取り上げられ、当時の様子が生き生きと伝えられてきた。

 東京帝大は官吏養成機関として誕生し、その地位を守るべく私大を差別し、法的に専門学校と位置づけ、劣った地位におとしめていた。しかし、私大も高文官試験や就職で実績を出していき、明治も中期となり進学希望者が増加すると、彼らの受け入れ先として注目されるようになった。徴兵猶予の特権も有利に働いた。

 また、各私大は開設の背景から教育内容に至るまで、おのおの特徴を持っていた。それは、時代の変化に対応する必要から創意工夫を重ねて行った結果でもある。

 ところで、現在の日本は、未曾有の東日本大震災から半年がたとうとしている。政治の混乱の影響で復興が思うように進んでいないようだ。周知のように原発事故が大きく絡んでいる。その最大の原因が“想定外”という発想であった。歴史を顧みず10メートル超える津波は起こり得ないと思い込んだ。政治家、官僚、学者、企業ばかりでなく、マスコミまでが一体となって原発を擁護したのである。実はこの考え方は現代に限ったことではない。

 作家の半藤一利によれば、第二次世界大戦の敗戦の原因も同様であったという。昭和の海軍は日露戦争による成功体験によって、大艦巨砲主義、艦隊決戦主義にとらわれた。時代は既に航空機による空中戦に移っていたというのに、この変化を“想定“しなかった。日本人は安定の時代を迎えると、この発想に取りつかれてしまうようだ。歴史の教訓が生かされず、知らず知らずのうちに繰り返してしまうのである。

 現在、大学の置かれている環境が厳しい。4年制大学の4割が定員割れである。今こそ歴史から学ぶことが多いのではないだろうか。大学関係者が想定外としてきたことはなかっただろうか。その意味で、この古島の「私立大学評判記」は現在へ大きなヒントを与えてくれるだろう。

 いしがみ
# by kuga-katsunan | 2011-08-30 18:48 | その他 | Trackback | Comments(0)
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明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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